2011年1月22日土曜日

好きなこと以外はぜんぶそうでもない

雰囲気でものを決める癖がある。
なんとなく、好きな雰囲気・空気というものがあって、そういうあんまり根拠のないことで人や物を信用してしまう。
「運命」という言葉はかなり胡散臭いのだけれど、実は結構信じていたりもする。

どれだけ周りや世間で素晴らしいと持て囃されていても、なんとなく好きになれなかったり信用できないということがよくある。
それは別に私の観察が優れているとか、先見の明があるとか、そういうかっこいいことではなくて。ただ単に「胡散臭さ」にすごく敏感というか。それも私の基準のなかでの「胡散臭さ」だからまあ、あまり信用ならない。

たとえば好きな物書き・作家・文豪もやはり、好みのお顔をしてらっしゃる。その方の作品を読んで、なんとなく好きだなあと思った人は大体見た目も好きだ。そういう方々の作品にはもう、初期から遡って全てを買い占めて私のものにしたいほどの愛着を持つようになる。また逆に、ひとつとても素敵な作品を見つけても、他の作品はいまいちぴんとこないような場合は大抵、後で写真なりを見て、納得する。

歌手や俳優はまだしも、なんと友人に至るまで、別に顔で選んだわけではないのになんとなく好みから大きく外れていない人たちが集まる。それは別に世間で言う「イケメン」とか「カワイイ」とかとは必ずしも一致しているわけでもなく、必ずしもそこから隔たりがあるわけでもなく。

顔というか本当に、その人の持っている雰囲気や温度や匂い。そういうものが、ばちっと合うようなひとはやはりあたしの運命の人だし、一緒にいるうちに合ってくる人もいる。また合わなくても一緒にいたいと思う人や、合わないけれど(合わないこそ、かな?)好きな人もいる。

それから、これは父親のいない家庭で育ったり、男性に対して少しトラウマとなるような経験を子供の頃にしたことがあるせいか、文学や音楽など好みが女性の生み出したものに大きく偏っている。
男性のつくったものでも、好きなものはあるけれど大抵同性愛者だったり中性的な空気をまとっている方である。こういう言い方は好まないけれど、分かりやすいだろうからあえて言うと「男くさい」「男らしい」、そういうものは苦手だ。

こういった好きなものに対しての嗅覚や好奇心や執着はものすごくあるのだけど、興味のないことにはとことん無関心であるために、私はすごく栄養が偏った人間だ。それが悪いことなのかはまた別として。
こういう偏った部分を、大学に入ってからは悪いことのように恥じて、必要以上に自分を責めていたように思うけれど、最近は別にそうは思わなくなってきた。
バランスは自然ととれていくもののように思えるし、そもそも自分自身のバランスの悪さに気を取られているうちに楽しいことを逃してしまうような気がして。

そうやって開き直って少しだけ背筋をのばして元気にしていれば、周りの人たちは案外あたしを受け入れてくれるものだ。たまに伝わらなかったり、うまくいかなくて、苦しい時もあるけれどその時はその時で一生懸命考えれば良いって思えるようになった。決めつけたり、レッテルを貼ったり、食わず嫌いしたりするのはもちろんよくないけれど。

基本的には楽観的で快楽主義者なので、それらしくのほほんとね。私が運命を感じたひとに、私もまた運命を感じてもらえるように。

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