2011年6月6日月曜日

今しか書けないことを:ジョゼと虎と魚たち

恋をした。傍目にも、それから自分でもはっきりそれと分かる恋をした。
「恋愛」というもの、「好き」っていうのが何かなんて考える暇もなく、すごいスピードでごろごろ転がってった。

あたしの、ほとんどはじめての恋と重ねないではいられない、苦しい苦しいおはなしだった。けっして美化しているわけではなく、ほんとうに、逃げても逃げてもあたしの記憶にしがみついてくるおはなし。



頭が悪くてちっともなんにも分かってなくて、でも明るくて女の子にモテて、人一倍体裁気にして、だけど優しくて素直でかわいくて弱いひと。
なんとなく約束をした遠いところへは連れて行ってくれなかったし、あたしの話だってきっと半分くらい聞いていなかったんだろうし、頑固で文句が多くて、それでいてすごく夢見がちなあたしの性格にだって疲れていたんだと思う。「行かないで」って言えばあたしを放ってはおかないひとに、甘えていた。


はじめから、いつかはだめになるって分かっていたのに答えに目を逸らしつづけていた恋だったので、終わりは思ったより早くそれからあっさりときた。あのひとらしい、なんとなく空気で分からせるずるーいやり方。

あたしのほうは、なんだかすっきりとして、「なーんだ、ひとりだってこうやって元気にやっていけるや」って、恋ってやっぱり意外とたいしたこともないんだなって、あんなに大好きで一緒にいないと気が狂っちゃうほどだったひとのこともなんでもなくなるんだって、安心してた。

あたしは今までなにも持ってなかったから、少しいい夢みたけど、それから醒めただけで最初とおんなじなんにもないところに戻ってきただけだから、なんてことはないフツウだって言い聞かせてなんとか毎日をやり過ごせていた。




なのに、




ジョゼと恒夫があまりにもあたしとあいつのようで、何もかもを一気に思いだして涙が止まらなくて、こんなDVDいちまいにこんなにぐしゃぐしゃにされていることが悔しくてなにがなんだかちょっともうわけがわからなくなるほどで、困った。

画面の中の、ほっぺとおでことくちびるとを、ぜんぶをだいすきって包んでくれるような、お父さんが子どもにするようなキスがすべてを思い出させて吐きそうになった。
なんでこんなもん録ったんだよ!ふざけんな!って怒りたくなるくらい。

知っちゃったら戻れないんだよ。なんにも期待しないでぼーっと座り込んでたあのころには。誰かと一緒に1日を過ごすこと。ほんとにお互いがお互いに自分の生活をしていて、でも隣にいるっていうことの安心。当たり前のように手をつないだり、当たり前のように一緒に食事をして、当たり前のように隣でぐっすり寝ることが、その「当たり前」があたしにとってはどれだけ特別で愛おしいものだったか分かってないでしょう?普通のことを普通にして、そしたらあたしが勝手に勘違いして、キモチワルイなこいつって思ったかもしれない。でもあたしはほんとうにその何もかもぜんぶがはじめてだったんだよ。責任とれよあほう。



自分が思っててでも言えなかったなにもかもが順序もなく一気に噴出して困った。
たくさん言葉にしたい思いはあって、でもそれを今言葉にすることは誰かをすごく傷つけるかもしれないし、それ以上にあたし自身も痛いことだけど、でもあとから振り返って懐かしむことは時間が経てばいくらでもできる。そうじゃなくて、いま。思いだして泣きたくなるほどにまだ大好きないま、ちゃんと言葉にして残しておきたいなあって。それはジョゼのせいだ。




あたしはでも、自分が思ってるよりきっと強くて、ぜんぜんだいじょうぶだ。きっとずっと先もこんなふうにして思いだして泣いたりすることもあるけれど、でも日常はだいじょうぶ。もうなんともない。
恒夫がジョゼを思いだしてあんな風になるように、あのひともあたしのことを思いだしていきなり泣いたり怒ったりしてほしいなってほんの少しだけ思ったけど、そんなことないのも分かってる。だからへいき。






なーんて書いてたら、ほんとにすっきりしてきた。ずっとずっと観たいと思っていて、TSUTAYAで何度も借りたけれど時間がなくてずっと観れないでいたおはなし。それが「ジョゼと虎と魚たち」だったわけだけど、このタイミングで出会えたということが運命・巡り合わせだって心底思える。



最後に:こんなごくごく私的なことを書くのはよくないのかもしれないけれど、でもまあこんな恥ずかしい女を一瞬でも相手にしてしまったことを恨んでもらうしかないな。ごめんね。

2011年5月3日火曜日

私が愛するのはあなたの:キャタピラー

私は戦争映画が好きです。いや、好きというよりは、半ば義務感のようなものに駆られて見ていると言った方が正しいかもしれないなあ。

戦争映画を、極度に怖がりな私がそれなりの本数観てきた理由はまたこんどそこだけに的をしぼって書きたいなあと思っているので今回は割愛します。
というのもこの映画、もちろん戦争なくしてこの映画を語ることはできないけれど、それ以上にひと組の夫婦のありよう、夫婦あるいは愛情とは一体何なのかというところにフォーカスされているように感じられたから。




戦地で四肢を失い、「芋虫」のような姿になり果てた夫が自分の元に帰還する。物語はそこからはじまる。


私なら、愛するひとがこんな姿になって戻ってきたらどうするだろうか。想像するだけ無駄かもしれないけれど、必死で考える考える考える。
あんな化け物のような姿で帰ってきたら、まずは気持ち悪いと思うだろう。でも自分が怪我をした時のことを思い出す。どんなにえぐくて見ただけでも吐きそうな傷口であったとしても、絶対慣れる。毎日嫌でも手当をしなくてはいけないのだから、見慣れる。人間なんてその程度の雑なもの。あたしなんて、それどころかその傷口を愛おしいとさえ感じてしまうようになったりするんだから、きっとクリアできる。綺麗事ではなくそう思った。


ただ、この物語の中では夫は耳もろくに聞こえなければ話もできない状態で帰ってくる。これは絶対に耐えられない。無理だ。どれだけキモチワルイ外見になろうが、きっと我慢できる。というかそのうち慣れる。だけど、もし愛するひとと気持ちを通わす術がなくなってしまったとしたら。無理だ。100パーセント不可能だ。
と、ここまで考えて私にとって「対話」というものがどれほど大切なものであるかということに気がつく。愛するひととはいつでもきちんと話したいし、伝えたいし、分かち合いたいんだなあと。あたしが今何を考えているのか、きちんと分かってほしいんだなあ。ということをなんとなく感じた。
私の求める「愛」というものは「対話」と切り離しては考えられないものなのかもしれない。




私のことはさておき、妻を演じる寺島しのぶ(私が崇拝している女優のひとり)は全編にわたって常に孤独だ。もちろん夫を演じる大西信満も素晴らしい演技で魅せてくれているのだけど、これは寺島しのぶのひとり芝居だ。すごい。だけどさびしい。辛い。毎日毎日気持ちの伝わらないお化けのようなものを相手に生きる。こんなに辛いものはないだろう。食い入るように、と言うよりは茫然と画面を見つめていた。最初の衝撃以来、同じことの繰り返しの毎日の中での心の動きを描いているのだが、まったく長いとは感じなかった。


私は結婚をしたことはもちろん、きちんと腰を据えて誰かとお付き合いをしたこともない。他人と向き合うことから逃げ回って生きてきたような人間だ。でもなんとなく、私にとって人を愛するということがどういうことなのか、そのヒントのヒントのようなものを与えてくれた。そういう意味では私にとって最も影響のあった映像作品のひとつとなるはずだ。

2011年4月16日土曜日

猫が顔を洗うのはどうして

雨の日、とくに春から夏のお昼までずっと晴れていたのに夕方になって突然ご機嫌ななめになるような日はなんだか心が落ち着かない。

お昼を食べて、さあ午後も頑張ろう。今日は仕事が終わればあの子とゆっくりお酒を飲みに行くんだーなんてついつい鼻歌まで出てしまいそうな、でも少しだけ眠たいおだやかなお昼に水をさすは雨の匂い。

窓をあけていればすぐに分かる。背中から雨の匂いがする。嫌な予感がするから空の色は見ない。とりあえず仕事をする。でも落ち着かない。なんだかもぞもぞと心臓あたりが動く。すぐにやっぱり我慢ならなくなって後ろを振り返る。

ああ、やっぱり。

お勉強をしていなくて全然できなかったのが分かりきっているテストの答案を恐る恐る答え合わせしたような。

もうこうなっては集中なんてできっこない。傘を持っていないなあ、今日行くお店ではテラスでビールを飲むつもりだったのに、雨となれば気分もちがう、予約を取り消そうかいやでもそうすれば楽しみにしていたあの子に申し訳がたたない、それより今日はとってもあたたかかったからまるで初夏のような薄水色のシフォンのワンピースで出かけてきてしまったのに雨ではなんだかちぐはぐでしかも少し肌寒いだろうなあ、一度帰って着替える時間はあるかしら、約束の時間を遅らせてもらおうかしら、ああ今すぐにでも家に帰ってしまいたい。そんなことしか考えられない。

それにこういう時の匂いというのがどうしてもだめで、なんだか私の方まで大声を出して泣きたくなる。眉がどんどんハの字になって今にも涙がぼろぼろ落ちそうになるのを、歯をぐうっと噛んで我慢する。もう大人なんだから泣いちゃだめだ恥ずかしいしここは会社なんだからと心の中で自分をたしなめるも効果なしで転がり落ちるようにかなしくなってしまう。

なにか昔あったことを思い出すような悲しさ。だけれども何も思い出せずそれでまたもやもやと心が落ち着かない。なにも思いだすことはほんとうはないんじゃないかってやり過ごそうとする、だけどこんな日はあの子の声を聞くまではもうぜんぜんだめ。

2011年4月7日木曜日

こんな天気のよい日には

いつもはひとりでふらふらしている歩きなれた池袋を、今日はふたりで一緒に歩いた。
女の子にしては少し歩幅の広いふたりで、ざくざく歩いた。


言いたいことをなんでも言える、そういう間柄の子。そういう子とは話すことはもとより、一緒にいることがとても心地よい。
ふたりして「あったかいねえ」「きもちいいねえ」って、たくさん歩いた。途中スターバックスでフラペチーノを買って、クリームをすくいながら。くだらなーいことでからから笑いながら。とにかく歩いた。


東京に出てきてもう3年目、ハタチになった。高知にいたときは花も空も色が綺麗なのは当たり前で、取り立てて綺麗だなんて思ったことは一度もなかった。それを楽しむだけの余裕がなかったということもあるし、それが決して特別でない日常の風景であったから。
だけど今日、東京らしい霞がかかった群青色の空に薄い桃色の桜の花びらが、もうちょっとくらっとくるほど綺麗に見えてしまった。いつも通っている図書館のそばの小さな公園が、桜の季節はこんなに綺麗だったなんてぜんぜん知らなかった。


桜の木の下でつっ立ったまんま、ぼけーっと空とビルと桜とをながめながらじゃくじゃくフラペチーノ飲んで、まあそれだけっちゃあそれだけなんだけど驚くほど気持ちがゆったりとしたあったかいものでいっぱいになった。


今まではもっと分かりやすい強い感覚、色も音もかたちもなにもかも強くて激しいものでないとうまくキャッチできなかったというか。例えばお化粧も、ファッションも、なにもかも強くてきつくてはっきりしたものを好んでたの。でもこのごろはもっとふわっとした居心地のよさとか、余計なものがくっついていない、過不足なく自分にぴったり添うメイクやお洋服を選ぶようになった。

季節だって春と秋は正直なんだか中途半端で、おもしろくないなあってずっと思っていた。
春がこんなにきもちよくてあかるくていいにおいのするものだとは。生まれてはじめてそんな風に感じられた。

ましてやきれいな景色をなにするでもなく眺めてこんな豊かな気持ちになれるなんて、あたしにもできるんだなあってびっくりして、すこしは大人になったのかしらん、なんてちょっといい気分になりました。


またこんど、もう少し遠くにピクニックに行く約束をして、駅で手を振ってわかれた。
ご飯を食べて、話して歩き回った、それだけのことだけど。

2011年4月6日水曜日

乙女をめぐるあれこれ

私は乙女である。
そのことは、揺るぎのない事実である。


乙女とは一体なにを指し、私を乙女たらしめるものはなにであるのか。



おと‐め〔をと‐〕【乙女/少女】

《「おと」は、動詞「お(復)つ」と同語源で、若々しいの意。本来は「おとこ」に対する語。「乙」は後世の当て字》
年の若い女。また、未婚の女性。むすめ。しょうじょ。処女。


うーん。すこしちがう。いや、かなりちがう。
わたしにとって、「乙女」とは信仰である。「乙女」いう生き方であり、選択肢である。
「年の若い女」である必要もなければ「未婚の女性」である必要もない。もっと言えばセックス依存症の「乙女」だって存在しえる、つまるところ「処女」である必要もない。さらにさらに、「『おとこ』に対する語」でもない。性別なんてとるに足らないくだらない区別だ。
いくつになっても望みさえすれば「乙女」は「乙女」であり続けられる。

乙女に必要なこと、それはなによりも清廉潔白であること。
だけれどもここでいう「清廉潔白」というのは決して誰かが勝手に決めた、よく分からないもやもやとしたルールめいたものに対してのそれではない。各々が「乙女」であるということに自信と誇りを持ち、簡単には曲げない崇高な精神のことを言うのです。
その拠り所はどのようなものであってもかまわない。「自らを乙女たらしめる規範」が存在していればよいのです。

私の場合、自分を「乙女」だとみとめたのはなにがきっかけだったろうか。
私のなかに少女性を植え付けたのはラプンツェル、情熱を吹きこんだのはジョージ朝倉、勇気を与えてくれたのはアンネ・フランク、可憐さを学ばせてくれたのは吉屋信子、美しさを焼きつけてくれたのは澁澤龍彦先生である。でもやはり中原淳一先生このひとこそが私に「乙女」であるという生き方を選ばせた張本人だ。
コンプレックスまみれで、人の顔色ばかりをうかがい、暗くていつも無理をしていた猫背の私がだんだんと背筋をのばしてしっかりと息をできるようになったのは彼らをはじめたくさんの文筆家のおかげであった。

子供のころからあまり友達の多い方ではなかった私が、唯一自分を解放できる行為が読書だった。(これは今もそうかもしれない。)
本に限っては、おねだりをすることを褒められた。母親に愛してもらいたい一心でとにかくどんどん本を読んだ。小学校のころ、図書室の本はもうほとんど読み切った。ちいさいころから高校にあがるまで通い続けた地域の図書館にも、気がつけば読みたいものがなくなるほど本を読んだ。中学・高校の図書室では、3冊までしか借りてはいけないのに、どうしても我慢できなくて毎回制服のブレザーの下に隠して10冊近くの本をこっそり家に持ち帰っていた。宿題はやらなくても本は読んだ。勉強はまったくしなかったけど、本はとにかく読んだ。大袈裟だと思うかもしれないけれど、当時の私にとっては本を読むことがそのまま生きることのように感じていたのだと思う。救いだった。

そんなわけでちいさいころからすこしずつ蓄えてきた「乙女」がかたちになったのはつい最近のことで、このごろなんとなく明確に自分の中での規範めいたものができてきた。
ずうっと憧れてきた「乙女」というものは、私が語るには崇高すぎて、私のような美しくもなければ余裕もなく、処女でもないただの女では到底辿り着けないものだと勝手に思い込んでいた。選ばれた人にしか与えられていない生き方だと思っていた。

けれどもそうではないのだ。「乙女」という生き方は、私が選ぶものなのだ。

今のところはこういう結論に達していて、これが私の思う「乙女」の正体だ。
思い描くその生き方に恥じぬよう、きちんと生きていくことそのものなのだ。
どのような境遇の、どのような容姿の、さらに言えばどのような性別を持つひとにも選ぶ権利のある、信仰であり、覚悟のようなものこそが「乙女」なのだ。

2011年3月31日木曜日

手紙が届きました。

おうちに帰ってなにげなくポストを開けると、明らかにDMではない葉書が1枚。
恐る恐る差出人の名前を見ると、台湾から。ああ。
そういえば一週間くらい前に友達から「住所おしえて!台湾から手紙送るから!」っていうメールがきていたんだった。



いつも通り能天気で気の抜けた、でもそれでいて筋の通ったさばけた文章が、よくわからないちいさな絵と一緒に黒のボールペンで葉書半分に書かれていた。
ああほんとにいつも通りだなあって。なんだか分からないけどすごいなつかしいというか・・・そういうやさしい気持ちになる、そんなかんじ。
書いている時の彼女の様子なんかがもう透けて見えるような、ほんとうに彼女らしい葉書。



世界中どこにいたって電波なら一瞬で届いてしまう。しかし手紙ではそうもいかない。現に彼女はわざわざメールで連絡をしてくれて葉書を送ってくれたのだから、届くまでにかなりの時間が経っているわけだ。
だけど彼女は私に葉書を送ってくれた。

あたしはおうちが大好きで、旅行なんてましてや海外なんて、行きたいと思ったことはほとんどないけれど、届いた葉書じっさいにを見て、読んで、彼女が私に葉書を送りたくなった気持ちが、すこしだけど分かったような気がした。

それとなによりも、彼女が旅先で日本を、日本にいる彼女の家族・友人を思い出した時にあたしのことを少しでも思い出してくれたということが嬉しかった。
あたしは誰かの頭の中に、ちゃんと生きてるんだなあって。大袈裟かもしれないけど、そんなような嬉しさがこみ上げてきて恥ずかしながら、部屋へのぼるエレベーターの中で泣いてしまった。あんな奴に泣かされるなんて、くやしい。



こうやって、人間の気持ちをそのままのせて人間の手が運んでくる手紙は、どんなに便利で合理化された世の中になっても、絶対になくならない。それも確信をしました。



ただまあ、その葉書の裏面の謎の壺のような変な写真は正直ちょっと意味がわからなくて、それも相変わらず趣味が悪いなあなんて鼻で笑ってしまった。

2011年2月19日土曜日

アイス持ってくる:カケラ

満島ひかりの大声が嫌い。
ぎやぁぁぁぁぁああぁってかんじの。あの黒板ひっかく音みたいな嫌悪感があって。嫌い。
でも、あたしは全然そんな風に大声というか、金切り声を上げて怒ったりしないから、うらやましい。
そんだけ自分の感情をあらわにできるのって、さぞかし気持ちいいだろうなあって。
人に気持ちを見せないでいることになれると、傷つかないで済むけどあんまり気持ち良くもなれないから。



男とか女とか関係なく、さわって気持ちいいひとと一緒にいたいっていうのは理にかなってるよなあ。その通りだ。なんも難しいことじゃない。
けど嫉妬も葛藤もいろいろぜんぶひっくるめて、とりあえず思ったまんまに体を動かしてみるっていうことは簡単なようで難しい。でも見てるとちょーーーかっこいい。気持ちいい。

恋愛とか性について学問として解釈することって個人的にはナンセンスだと思ってたりします。この人は○○だって分類することも難しい。分類されてた方が生きやすかったり、それで楽になる人がいるのも分かるけど。そして矛盾してるけどそういう学問に興味があったりもします。笑

人のことを好きになるのとかぜんぜん理由ないし、それこそぱっと見てなんとなくすごい気になって仕方なくて、こう喉の下のあたりからぐうって熱くなってくるようなかんじがして、体が勝手に反応しちゃうもんだと思うから。
そういう風に体が反応しちゃってしかもむこうももし同じように感じてくれていたとしたなら相手が男だろうと女だろうと恋人がいようと結婚していようと、正直どうでもいい。
結婚してる人とセックスしてるのと、女とセックスしてるのってどっちが悪い?どっちが気持ち悪い?どっちもだめなこと?それも人によって違うはず。
何が正しくて美しくて綺麗で汚くて間違ってておかしいのかなんて自分が決めることであって、周りの人が決めることじゃない。
と、少なくとも私は思うのです。

私、この子と付き合ってるんです。ちょー愛し合ってるんです。
って人前で言えるのは、正直しびれるくらいかっこよかった。それはもう体から抑えきれなくて出てきたような口ぶりで、伝えるというよりも口から発することに意味があるかんじの言い方。



「あ」からはじまって「る」でおわる、あたしが今いちばんはるちゃんに言ってほしいことば、何かわかる?
がいちばん印象に残った台詞。これは間違っても「愛してる」とかいうきっしょい陳腐な言葉じゃないです。悪しからず。

それにしても、好きとか愛してるとかそういう言葉以外にもっともっと愛情とか親しみとか表せる言葉ないのかな?
なんとなく、こういうのは胡散臭くて格好悪い気がして使えない。けど思いつかないからしぶしぶ使うこともある。そういう言葉。
ただ、うまい言い回しが思いついた時にそれを披露する楽しみはあるなあ。
好きとか愛してるとか、それ以上にいっぱいおもってることをうまーく表現できるようなことばを死ぬまで探すことってすんごいステキな気がしてきた。

っていうのもなんとなーく胡散臭いんだよなあ。反省。かっこつけるのって難しい。