2011年5月3日火曜日

私が愛するのはあなたの:キャタピラー

私は戦争映画が好きです。いや、好きというよりは、半ば義務感のようなものに駆られて見ていると言った方が正しいかもしれないなあ。

戦争映画を、極度に怖がりな私がそれなりの本数観てきた理由はまたこんどそこだけに的をしぼって書きたいなあと思っているので今回は割愛します。
というのもこの映画、もちろん戦争なくしてこの映画を語ることはできないけれど、それ以上にひと組の夫婦のありよう、夫婦あるいは愛情とは一体何なのかというところにフォーカスされているように感じられたから。




戦地で四肢を失い、「芋虫」のような姿になり果てた夫が自分の元に帰還する。物語はそこからはじまる。


私なら、愛するひとがこんな姿になって戻ってきたらどうするだろうか。想像するだけ無駄かもしれないけれど、必死で考える考える考える。
あんな化け物のような姿で帰ってきたら、まずは気持ち悪いと思うだろう。でも自分が怪我をした時のことを思い出す。どんなにえぐくて見ただけでも吐きそうな傷口であったとしても、絶対慣れる。毎日嫌でも手当をしなくてはいけないのだから、見慣れる。人間なんてその程度の雑なもの。あたしなんて、それどころかその傷口を愛おしいとさえ感じてしまうようになったりするんだから、きっとクリアできる。綺麗事ではなくそう思った。


ただ、この物語の中では夫は耳もろくに聞こえなければ話もできない状態で帰ってくる。これは絶対に耐えられない。無理だ。どれだけキモチワルイ外見になろうが、きっと我慢できる。というかそのうち慣れる。だけど、もし愛するひとと気持ちを通わす術がなくなってしまったとしたら。無理だ。100パーセント不可能だ。
と、ここまで考えて私にとって「対話」というものがどれほど大切なものであるかということに気がつく。愛するひととはいつでもきちんと話したいし、伝えたいし、分かち合いたいんだなあと。あたしが今何を考えているのか、きちんと分かってほしいんだなあ。ということをなんとなく感じた。
私の求める「愛」というものは「対話」と切り離しては考えられないものなのかもしれない。




私のことはさておき、妻を演じる寺島しのぶ(私が崇拝している女優のひとり)は全編にわたって常に孤独だ。もちろん夫を演じる大西信満も素晴らしい演技で魅せてくれているのだけど、これは寺島しのぶのひとり芝居だ。すごい。だけどさびしい。辛い。毎日毎日気持ちの伝わらないお化けのようなものを相手に生きる。こんなに辛いものはないだろう。食い入るように、と言うよりは茫然と画面を見つめていた。最初の衝撃以来、同じことの繰り返しの毎日の中での心の動きを描いているのだが、まったく長いとは感じなかった。


私は結婚をしたことはもちろん、きちんと腰を据えて誰かとお付き合いをしたこともない。他人と向き合うことから逃げ回って生きてきたような人間だ。でもなんとなく、私にとって人を愛するということがどういうことなのか、そのヒントのヒントのようなものを与えてくれた。そういう意味では私にとって最も影響のあった映像作品のひとつとなるはずだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿